タッグフォースに物申す
ここが変だよヘルカイザー
101031

 過去にDIARYにて掲載していた考察、2009年10月8日「ここが変だよTF3」、2010年1月12日「タッグフォースに物申す」を元に加筆修正・再構成した考察です。気付けばほぼ1年以上前の話なので解釈が変わった部分も多く、結構改訂多いです(苦笑)アニメGXのリライト&補完なタッグフォースの亮(主にヘルカイザー)に、どーしても違和感を感じてしまうという話。
 タッグフォースのお好きな方は、回れ右を推奨します!1ミリも役には立ちませんので、遠慮なく見なかったことにしてください!
 何か言いたくなるほど気になるのはヘルカイザーだけですし、タッグフォースシリーズを全否定したいわけではないので、そのあたりご了承ください。
 TFシリーズをプレイしていて、なんか変だなぁと感じたことのある方だけ、内容へどうぞ。

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1.ヘルカイザーの勝利セリフ
2.TF3ヘルカイザーイベント2
3.TF3ヘルカイザーイベント3
XX.あとがき(DIARY版)

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1.ヘルカイザーの勝利セリフ

 まずは、TF2・TF3で登場する、ヘルカイザー版の亮の勝利セリフから。

「鬼にならねば、見えぬ地平がある…!
 敗者の貴様にはわかるまい!」


 上段は、言わずもがなTURN-83「ヘルカイザー亮VSマスター鮫島」にて、亮が実際に言っていたセリフなので問題ありません。問題があるのは下段、「敗者の貴様にはわかるまい」。
 これのどこがおかしいかというと、そもそも「鬼にならねば見えぬ地平がある」ことに目覚める原因は何だったかを、見誤っていると思わざるを得ない。地下デュエルは亮が目覚めた場所でしかなくて、原因はエド戦から続く連敗です。亮は負けたから「鬼にならねば見えぬ地平」を知ったわけで、この「鬼にならねば見えぬ地平」を分からない人間がいるとしたら、例えば敗北を知らなかったカイザー亮です。(十代も分からないし、十代はエドへの敗北だけじゃやっぱり分からないんだけど)
 だからもし「〜には分かるまい」ってのを付け加えるとしたら、多分辛うじて「勝者の貴様には分かるまい」のほうがまだ正しい(しかし正しいとは言えない)のですが、これじゃただの負け惜しみでしかないっていう(笑)
 敗者云々というのは、おそらくTURN-95「仁義なき兄弟デュエル!亮VS翔」の

「勝つのはオレだ。消えろ、敗者は!」

から出てきたんだろうなとは思うのですが。
 このセリフで亮が嘲笑しているのは、その唐突さゆえに迷言扱いされている(笑)十代のセリフ「お前こそが、カイザーだ!」からも分かるように、「リスペクトデュエルで闘うデュエリスト」=「カイザー」、つまり、翔であり、過去の自分です。
 微妙にめんどくさい話になりますが、「リスペクトデュエルを忘れてエドに負けた亮」は、「カイザー」ではありません。それに対して、「リスペクトデュエルで亮に負けた翔」は、「カイザー」です。このデュエルは、一面では、亮が果たせなかった「カイザーの敗北」を翔が代行したデュエルで、TURN-65「オレのデュエルができていれば(勝ち負けは関係なかったのに)」という、(勝利への欲望にかき消された)「亮の未練」を間接的に晴らす話なんです。
 しかし、それはあくまで代行であり、完全ではありません。この「カイザー」への勝利によって、亮は「カイザー」=「過去の自分」と完全に決別し、「ヘルカイザー」としての自分を確立します。そして、「ヘルカイザー」としての戦い方を貫いたデュエルでヨハンに敗北し、そのデュエルを認めてもらうことで、やっと自分の中で燻っていた未練を完全に晴らすことになります。
 繰り返しになりますが、エドに負けた亮の本当の未練は、「自分のデュエルを貫けないままで負けたこと」です。つまり、亮の本当の願いは「自分のデュエルを貫くこと」であり、願いの完結のためには「敗北」が必要不可欠で、願いの終着点は「敗者」なんです。
 TURN-83で亮が言っていた「純粋なる勝利」は、おそらく、デュエルの勝利ではなく、「最後まで自分を貫き通すこと」です。そして、勝利にこだわることをやめられない※1亮が貫ける「自分自身」は、「勝つために全力を尽くすデュエル」※2だった。

 とりあえず言えることは、「鬼にならねば見えぬ地平」は、亮にとっては「敗者にならないと見えなかった地平」で、その地平を生きて亮が手に入れたかったのは、多分「敗北(≒死)に穢されない永遠の輝き(=純粋な勝利)」で、GX本編的には亮はそのセリフは「勝ち誇って」は絶対言えないと思う、という話。
 というかヘルカイザーの存在そのものが悪あがきなわけで、それは紙一重で負け惜しみに近かったりするんだけど、負け惜しみなんて言いたくないから、そのぎりぎりのラインが「鬼にならねば見えぬ地平がある」だし、デュエルをしている間だけ、勝利が見えてる間だけのハイテンション(笑)だし。やっぱりあのセリフには何もつけ足せないと思うのですよ。


2.TF3ヘルカイザーイベント2

 TF3ヘルカイザーのパートナーイベントハート2つ目に入ります。

「俺は、プロ世界で自分を見失い
 自分が言った言葉を忘れていたようだ
 自分で、自分の限界を決めていはいけない…」


 まず上段ですが、TURN-89「ヘルカイザーVSダークネス吹雪」の時点で、

 亮「オレは、闇にはいない。闇になど、囚われていない」
吹雪「キミは、自分を見失ってなど、いなかったというのか…」
 亮「光でも照らすことのできない闇を、
   その力がもたらすものを、知りたかっただけだ」


というやりとりがあるので、亮はこの時点ではもう自分を見失ってはいません。おそらくですが、自分の変わった部分と変わらない部分、昔の自分と今の自分の、両方をきちんと分かっています。

 続いて後半、このセリフの「自分で言っていた」というのは、亮と十代の卒業模範デュエル、TURN-52「vsカイザー(後編)ファイナル・フュージョン」での、

十代「やっぱ、カイザーは強ぇ。パーフェクトだぜ!」
 亮「だが同時に、それが俺の、限界でもある」
十代「え?」
 亮「パーフェクトという、ある意味の限界を求めるな。
   遊城十代、お前には無限の可能性がある」


のことだと思います。しかし、ここで亮は、「自分で自分の限界を決めてはいけない」とは言っていません。亮が言っているのは、

「俺はこれ以上強くなれないけど、
 お前は俺以上に強くなれるから、間違っても
 俺みたいになりたいなんて思うな


ということです。「自分らしさを忘れるな、でないと自分本来の可能性を殺してしまう」ということです。高校3年生が使う単語として引っかかる「限界」という言葉は、亮はあくまで「亮」と「十代」を区別するために使っているだけで、その意味については、むしろノータッチなんです。
 そして、亮のこの「限界」の判断が正しかったことが、「亮の限界を超える相手」=「エド」の出現で分かります。
 エド戦だけを見ると、「自分を見失った」=「リスペクトデュエルができなかった」、=「リスペクトデュエルができていれば勝てた」と解釈しがちですし、その時点でそう思わせること自体シナリオの狙いではあるのでしょうが、その後でエドに負けた十代が新しいE・HERO(=十代に眠っていた可能性のひとつ)で雪辱を果たしていること、そしてヘルカイザーのたどった道のりを見ていると、この解釈は正しくありません。
 亮はあくまで、限界まで高められた自分のリスペクトデュエル以上の力を持つエドに負けた。亮が自分を見失ったのは、「カイザー」という名前が背負っていたデュエル・アカデミアの期待を意識し過ぎて、自分に敗北を許せなかったから※3であって、どちらに転んでも亮は敗北していた。※4
 だからTURN-65「ヘルカイザー誕生!キメラテック・オーバー・ドラゴン」とTURN-83「ヘルカイザー亮VSマスター鮫島」の間には、おそらく、亮がエド戦の敗北を正しく受け止めて、ヘルカイザーという道を自分の意志で進む決意があります。
 亮に残された選択肢は、「絶対に勝てない相手」を放置したままリスペクトデュエルを続けて聖人を気取るか、リスペクトデュエルに殉じてデュエルをやめるか、リスペクトデュエルを捨てても強くなるか、その3つです。そして、考えるより先に、亮はもう強くなる道を選んでいた。たとえ人道的に外れた道だとしても、「一人の決闘者(デュエリスト)」として闘い続ける道を、本能で選んでいた。2期の亮は、かすかに残る「自分の感情」をも殺して、「決闘者(ヘルカイザー)」に徹している節があります。

 「亮が忘れていた『自分で言ったこと』」があるとしたら、「自分らしさを忘れて可能性を閉ざすな」のほうだと思います。ただ、亮自身も、自分の「自分らしさ」を知らなかった、あるいは誤解していたから、「忘れた」とはちょっと違う。
 亮の「自分らしさ」は、十代が称賛した通り「強さ」だったんだと思います。鮫島師範に教わったリスペクトデュエルは亮らしさの本質ではないし、十代に影響されて流れそうになった「楽しいデュエル」も、亮の目指すものとは違う。「強さ」こそが「亮が目指すべき自分らしさ」だったから、亮はリスペクトデュエルを捨てても、楽しさを捨てても「強さの高み」を目指した。
 そして、「師範のリスペクトデュエル」を超えて、「強さ」や「完成度」を測る物差しを失った亮にとって、唯一目印にできるものが、「勝利」だった。


3.TF3ヘルカイザーイベント3

 TF3ヘルカイザーパートナーイベント、ハート3つ目に進みます。

「今思えば、勝利の先に目指したものなど
 他愛無いものだったのかもしれんな…」


 亮が勝利の先に目指したのは強さで、強さを求めること自体が「本当の自分」や「アイデンティティ」を求めることだった以上、求めたものが大したものじゃなかったかもしれないなんて、口が裂けても言うはずない。自分の価値や可能性を否定することは、GXの中で最大のタブーとされていることで、逆にそれを肯定するためにこそ、登場人物たちは「みんなとの思い出」を重ねていった。「絆に結ばれている自分」だから、「誰とも違う孤独な自分」を肯定できる、そういう話なんです。

 TURN-8で、TURN-52で、自分に勝てなかった(十代の一敗一引き分け)けど全力で向かってきた十代をちゃんとリスペクトしていた亮が、負けたとき、というより負ける直前から必要としていたのは、多分それと同じ視線、十代の「カイザー、やっぱりあんたはスゲェよ!」だし、クロノス先生のセリフ「先ほどのデュエルを笑う者など、誰もいないのーネ!」だったんだと思います。
 でもそれは、誰から与えられるべきかというと実は自分で、亮はあの瞬間、カイザーという立場に気を取られて、自分で自分に敗北を許すことができなくて自分を見失って、「負けた自分」を、「弱い自分」を、がんばったならそれでいいって、そのままでいいって肯定できなかったから、だったらもっと辛い場所で頑張ろうみたいな感じでヘルカイザーになったわけで、十代の感動もクロノス先生の言葉も届く前の自分だけの孤独な場所で、相手の頭上に輝く勝利を見つめて、自分の敗北を知ってもなお自分を認めることができるか、否定しないでいられるか、っていうのが、亮が抱えていた本当の課題だったという話で。
 だから…「消えていったみんなもきっと、それを望んでいるだろう」っていうのは、仲間を犠牲にした十代のこと、「それが精一杯だったのなら、そんな風に自分を責めなくていい」ってことで、つまりリスペクトの精神で、それが言えたのは、ヨハンと全力で戦って負けた自分を認められたからで、それはTURN-146で十代とデュエルしたときの亮にはまだ言えないセリフで…orz
 本当に頑張って駄目だったんなら、負けようが死のうが世界が滅びようが恥じることはないしお前のこと笑ったり責めたりしないよみたいな、だからこそ最後まで諦めるなみたいな…こう言うとやけにぶっ飛んだ説明になるんですが(笑)…でも多分そういうことで、「勝ち負けなんか関係ない」通り越して「生き死になんか関係ない」まで飛んでいったと思うと亮は…凄いですね…(笑)
 十代は、それが自分の望みだからこそ「奇跡を起こしてみせる」って言うんだけど、あのデュエルの後で言う「ああ、消えていったみんなもきっと、それを望んでいるだろう」ってセリフで、亮が自分も同じことを望んでるって意味を言外にしか込めてないのは、もし奇跡が起こせなくたって、オレはお前を責めたりしないから、心配しないでやるだけやってこいっつー激励なのかなぁとか。
 (多分)期待しまくってるくせに期待してるとは言わない優しさ、かもしれない。十代ならできるって信じてるし、そうであってほしいんだけど、奇跡が起こせても起こせなくても、変わらずに十代のことは大切に思ってるよ、っていう…。その意味で、亮のメッセージは、コブラ戦のヨハンの叱咤より、一歩進んでいたりして。
 この…ツンデレ馬鹿…orz


XX.あとがき(DIARY版)

 なんというかまぁ…TFのシナリオスタッフに同情はするんですけど。GXのシナリオを裏情報なしで解釈してリライトするのがいかに難しいかというのは、ここ半年(注・元記事書いた当時)で嫌というほど思い知らされたので、いわんや仕事してる社会人にそこまで読めというのは酷だとは思います。私はここ半年起きてる間の思考の9割がGXですという記述に嘘偽りはありません(GX廃人と呼んでくれ!)
 でもやっぱり、「公式」として受け取られるものでこのシナリオはやってほしくなかったな!というのが正直なところ。

 そんなわけで、最後に言うことでもないですが、TF2の吹雪かな?の紹介で「おそらく」なんて言葉が使われてることから言っても、TFスタッフも視聴者同様アニメ本編以上の情報はもらってないと思います。
 他のシナリオも同人的な脚色が強いですし、普段はネタで誤魔化してるのに、ヘルカイザーはネタにできないからやり辛かったみたいな感じなんじゃないかと思います。十代ルートも若干そんな気配がある。
 TF3が発売延期したり登場人物紹介が無いのって、そのへんどういう方針で行くか揉めたんじゃ?とか思ったり(爆)絶対藤原がネックだったんだぜ。設定の隠れ方が尋常じゃないもん(笑)
 …というわけで、憶測は尽きない(爆)鵜呑みにしちゃダメだよ!


 
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 ここまでおつきあいくださった方、ありがとうございました。
 TFシリーズはとことん好きな方も多いので(私自身、基本的には楽しんでますし)、あまり批判のようなこと(というか、批判ですが)をしたくないとは思うのですが、やはりアニメGXと亮を心底愛している(爆)人間としては、亮の何が良くて、何が悪いかがズレてしまっている部分だけは、どうしても一言言わずにいられませんでした。
 これがGXじゃなかったら、亮じゃなかったら、私はここまで気にしないと思います。まぁいいんじゃね?くらいで流すと思います。でも、でも、でも亮だけは…!ただでさえ誤解されがちな亮だけは…!心底愛してる亮だけは…!私にはどうしても…見過ごせませんでした…orz
 これを読んでくださった方にそんな方がいるとは思いませんが、くれぐれも、これを見てTFを感情的に叩くようなことだけはしないでください。よろしくお願いします。
 この考察が、タッグフォースを快適に楽しむ妨げにならないことだけを切に願っておりますorz

 
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■詳注(相変わらず使い方適当)

※1 
TURN-148で「勝利だけに意味を見出してきた」と亮が明言しているので、この時点まではそういう気持ちが残っていたのは確かです。しかし、それを乗り越えた後も「ヘルカイザー」としての戦いは続いているので、本当の「ヘルカイザー」のデュエルには、結末としての「勝利」自体は不要だったと言えます。

※2 しかもこれは、
TURN-8で翔が亮のデュエルを「勝つために計算され尽くした、誰も寄せ付けない」デュエルだと評しているので、あくまで、亮がもともと持っていた側面だったりします。
 相手をリスペクトすることと、勝利を目指すこと(≠勝つためだけに戦うこと)は両立できるんですが、シナリオのせいもあって結構分かりにくいんですよね、これ。個性の違う亮と翔と鮫島校長が、同じ「リスペクトデュエル」をしてるせいで、撹乱されちゃってるというか。
 亮のリスペクトデュエルは「デュエル・アカデミアの帝王」と切っても切れないせいで、いわゆるノブレス・オブリージュ的というか、貴族の義務ならぬ「強者の義務」みたいなところがあるのに対して、翔のリスペクトデュエルはもっと一般的な「正しいデュエリストの心得」で、鮫島校長のリスペクトはさらに一般的な「思いやり」な感じがします。

※3 このあたりはかなり私の解釈が入ってはいるのですが、改造制服レベルのプロ衣装と、決定的に我を忘れた瞬間と思われるTURN-57「カイザーの名に懸けて、負けるわけにはいかない!」というセリフ、TURN-113・114で佐藤先生が十代に対して「トップとしての自覚がない」と言っていたこと、その後の
TURN-119でヨハンが十代に「お前は皆の期待を背負ってる」と言ったこと、そして卒業模範デュエルで「亮がいた“アカデミアのトップ(模範)”の地位を、十代が継いだ」という構図を考えると、多分この理由なのではないかと思います。自分のためにデュエルしてきた十代とは対照的に、亮は周囲への影響・周囲の目に、かなり自覚的なタイプだと思うので。(自覚的ではあるけど、筋が通らないと思ったら切り捨てられるだけの豪胆さもある・笑)
 そしてこの「期待への責任感」は、亮にとってはやっぱり「カイザーの誇り(プライド)」だったんだと思います。だけど、自分の実力がその誇りに見合わなくなったことを悟って、プライドを捨てて(TURN-83のロスト・プライド)強くなろうとするんですね…。誇りに見合う実力を取り戻すためにプライドを捨てる、その矛盾が切なすぎる…orz

※4 こう考えるとTURN-57のエドのイヤミの意地悪さはものすごいです。「自分を見失うほど熱くなったら、プロでは負けだ」なんていかにももっともらしく言ってますが、自分を見失おうが見失わまいがプロであろうがなかろうが亮は負けていたし、斎王の占いを信じてる以上、エドはそこまで分かってるくせにわざわざこんなことを言うんです。まぁ要するに、中身カラッポの説教にもなってない説教(=イヤミ)で亮を全力でバカにしてるわけなんですが、これほどイヤミらしいイヤミは見たことがありません(笑)お手本にしたいぐらいパーフェクトなイヤミですよ!(笑)
 しかし、そのイヤミに惑わされずに「リスペクトデュエルさえできれば勝ち負けは関係ない」(=プロがどうとかは関係ないし、負けたことが問題なわけじゃない)って言い聞かせてる亮は、やっぱり控えめにしっかりゴーイングマイウェイ(笑)(ただ、言い聞かせてる時点で結構こたえてはいたんだろうな…)

 
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