丸藤亮は何が新しかったのか?
豹変ライバルの系譜
090307 |
まず始めに、私が勝手に命名した「豹変ライバル」は、簡単に言うと、「昔はああじゃなかった」と語られたことのある、厳密には「悪」と定義されなかった敵役・ライバルを指します。亮は無印から言うと主に闇遊戯と海馬瀬人の系譜を引いていますが(多分)、ここでは前述の「豹変ライバル」というカテゴリで考察していくので、無印キャラで言うと海馬要素の話になります。
引き合いに出すキャラクターは、『幽☆遊☆白書』の戸愚呂(弟)、『るろうに剣心』の蒼紫、あとは我らが海馬社長です。当たり前のようにこれらのキャラのネタバレがあるんで、万一気になる方は先に漫画を読んでください、全部名作少年漫画です(笑)
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戸愚呂(弟)の場合
彼が豹変した理由は、「自分の力不足故に自分の弟子と仲間を皆殺しにされたから」でした。そして、力を求めるようになり、人間よりも高いポテンシャルを持つ「妖怪への転生」を願い、妖怪となってひたすら力を高めていきます。その生き方をコエンマは「力を求めると偽った拷問」と評価しています。
これは、ヘルカイザーにも同じ評価をあげてもいいと思います。二人の違いは失ったものが仲間だったか、デュエリストとしてのプライドだったか、それだけの違いです。ただもちろん、その違いが二人の結末を分けたとも言えるのですが。
亮が失ったプライドは、力を得ることで取り戻すことができるものです。しかし戸愚呂の失った仲間は、いくら「過去に持っていれば守れただろう力」を後から手に入れたところで、帰ってはきません。その過失を許せない戸愚呂は、永遠に近い時間苦しみ続けた後に完全に消滅するという道を選択します。
けれどこれを、「亮と違う」と言い切るのはひょっとすれば性急かもしれません。ヘルカイザーとして地獄をさ迷い、自らの敗北でその生涯を閉じた(いやもちろん実際には死んでないんですが)という言い方もできる亮がやってることは、やっぱり戸愚呂と理屈はまったく同じです。スケールが違いますが。
だから亮も、「二度と取り戻せないものを失った」という言い方もできます。つまり、エド戦で「亮のプライドは跡形も無く崩壊した」。そしてヘルカイザーとして生きた彼が取り戻したプライドがあるとすれば、それは以前のものとはまったく違う「新しく創造した」プライドなのだ、と。ただこれはモデルチェンジみたいなものなので、リスペクトデュエルの流れはきっちり汲んでいるのですが。
四乃森蒼紫の場合
この人も戸愚呂とほぼ同じ理由、「仲間を死なせてしまった」という事実をきっかけに豹変します。違うのは、その死が「心から敬愛する蒼紫を守るため」という動機によって引き起こされた結果だったために、「彼らの墓に供えるための花として、「最強」の称号を求める」という、やや前向きな理由になっていることです。(というか、蒼紫が自殺しかねなかったから剣心がとりあえずの目的としてそれを持てるよう仕向けたんですが)
しかし、戸愚呂と大きく違うのは、途中で彼が完全に「自分を見失っている」ということです。「何故最強にならねばならなかったのか」を忘れて、剣心を倒せさえすればそれでいいと思い込んでしまったところです。
蒼紫が自分を見失ってしまった理由は、彼にとって「最強を求める闘い」が、決して苦ではなかったことでしょう。亮や戸愚呂にとっては、「力を求める」ということが「あえて苦境に立つ」ということを意味したのに対して、彼にとってそれはむしろ積極的に「自分らしく生きる手段」です。そしてだからこそ、麻痺して自分を見失ってしまった。
89話の吹雪は、亮がこの状態にあると勘違いしましたが、亮は実際には自分を忘れてはいませんでした。つまり亮は、「勝利を求める」というスタイルで目指しているものが、敗北によって崩壊したプライドの再構築だということを常に理解していたということです。(どこまで具体的に自覚していたかは分かりませんが)。多分戸愚呂も、自分を忘れたことはありません。だからこそ、最後に幽助が自分と同じ道をたどらないよう面倒を見るように幻海に頼むのです。
戸愚呂の消滅、ヘルカイザーの終焉に当たるものは、蒼紫においては「目覚め」です。「失った誇りを取り戻せ、目覚めるときは今なんだ!」95話の翔はこれがやりたかったと思われます。でも亮の場合は、取り戻すも何も取り戻すべき誇りが跡形も無いので、翔の思う方法では元に戻ることは不可能というか、そもそも亮は元には絶対に戻れないのです。
でも逆に言えば、亮は常に亮だったとも言えるわけですが。
海馬瀬人の場合
…と、ここまで書いてきて社長がえらく書きにくいということにここで気づく(笑)
海馬の場合多分後付で設定が変動していったせいで矛盾も多々あるんですが、彼の場合はどちらかと言えば蒼紫寄りです。
孤児時代の海馬は極論すれば「モクバのために」なんとか力(権力とか財力とか)を手に入れようとしていった結果、剛三郎の英才教育もあいまって心が歪んで自分を見失います。それを闇遊戯のマインドクラッシュによって、とりあえず歪みをリセット。そして廃人状態でひっそり心(自分)を構築しなおし、モクバのために完全覚醒します。
が、デュエリストキングダム編では依然としてモクバが人質に取られているため、モクバを取り戻すためにはやはり遊戯を倒さなくてはならない、つまり、力を持っていなければならない。元々わかりやすく傲慢な人だし倒さなきゃいけなかった遊戯は自分でも倒したい敵だったので、彼も戸愚呂や亮と違って葛藤しません。
蒼紫と一緒で「力を求める」ことに抵抗がない海馬の場合、しばしばその「力」の中に自分を見失うため、闇遊戯に勝てません。逆に神という「力」を捨ててブルーアイズを召喚することでイシズに勝ったデュエルなんかは、海馬が大切にしないといけないものが何かをはっきりと示していると言えるでしょう。
さて、それでは本題です。丸藤亮の何が新しかったのか?
そもそも「豹変ライバル」の定義をした時点で答えは見えてるという説もあります。「昔はああじゃなかった」と言われるとき、これまでは「物語以前」として回想されていた過去が、物語の冒頭に本編として置かれていた。これは亮単体というより、当初「十代向け」に作られた遊戯王DMGXそのものがそういう特徴を持っていたんじゃないかと思います。話の開始当初の十代を遊戯や遊星と並べると十代だけすごく楽天的ですが、4期の十代なら違和感少ないと思うんですが、どうでしょう。WJ水準(?)の原作・5D'sと比較してあーだこーだ言えるのは4期だけで、3期まではジャンプじゃなくて例えばコロコロコミックみたいな感じなんじゃないかと。それがドッキングしてるのがGXのすごいところかもしれません。
あと亮が「自分を見失っていない」という点で、時代の近い蒼紫・海馬よりも、時代の遠い戸愚呂のほうにむしろ近いのは、周囲を気にしすぎて(あふれかえる情報に流されて)自分を見失いがちな今の時代だからこそ、「徹底的に個人的な理由で」自分の目指すものへ向かっていった結果、以前の作品の中に存在した「揺らがない自分自身」を再現することができたということなのではないかと思います。
そういう、ある種古きよき時代の再来みたいな人が、戸愚呂のように主人公に遠い世代から、多分に後悔を原因として伝言を頼むという間接的なやり方ではなく、近い世代から、ただ自分の生き様を見せつけるというやり方で直接主人公を導いたこと。師匠や先達と言うよりもまさに「先輩」という立場で主人公に先んじていたことが、亮の新しさと言えるのではないでしょうか。
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参考文献
◆ 『幽☆遊☆白書』(1990〜1994) 冨樫義博
アニメでもコンビニコミックでもカットされた最初3巻のほのぼの幽霊ストーリーが好きなんですが、WJであのノリで続けるのは難しいみたいですね。蔵馬と幽助の最初の話も好きだなぁ。
アニメで左京×静流とか追加されたのを思い返すにつけても、アニメ化っていうのはれっきとした二次創作なんだなぁと思う作品(笑)
余談ですが、蔵馬派です(笑)
◆ 『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(1994〜1999) 和月伸宏
このアニメで初めて主題歌の歌詞テロップを表示しないという事態に遭遇して驚愕した。
「二重の極み」の説明になるほどと思って石ころ相手に練習したことのある人はいるはずだ!ドラゴンボールの舞空術しかり。漫画やアニメってこれだから怖い(笑)
比古清十郎はいい師匠ですねぇ…☆
◆ 『遊☆戯☆王』(1996〜2004) 高橋和希
これに説明(いや、上二つも説明してないけど)つけるなんて野暮なことはしません(笑)
当初変な髪形を馬鹿にしていた私の実家に、きっちり東映版のTRPG編のビデオが今でも残っているあたりに遊戯王の素晴らしさを感じます(笑)
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