「リスペクト」の意味
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「リスペクト」は、日本語では普通「尊敬」と訳されます。 が、GXでは単純に「尊敬」という意味では使われていません。 その証拠にTURN-83では「相手の心となって自分を見る」のがリスペクトデュエルだと、鮫島師範も言っています。 これがなんで「尊敬」になるのかというと、これは完全に私の憶測なんですが(ネット上には意外とそれ系の意見は載っていなかった…)、「respect」という言葉が、キリスト教圏の「主への尊敬」から端を発しているからなんじゃないかと思います。 キリストを尊敬する、信仰するということには、「主が私を見ている」と常に戒めとして心に留めるということが入ってきます。つまり、「神は自分をどう見ているだろう?」という問いを、自分の行いを修正する基準にするということです。 サイバー流の「相手の心となって自分を見る」は、おそらくここからきているんじゃないかと、私は思ってるんですが。 あともうひとつが、「re・spect(再び・見る)」という語の成り立ちから見た意味なのではないかと思います。ここから、「(対象の価値を)再認識する」ということで「尊敬」という意味になるそうです。TURN-95の翔の「リスペクト」はこれな気がします。 また、「相手を見る」と言ったとき、デュエルでは相手の視線を真正面から見なければなりません。 相手の視線を完璧に真正面から見返すには、相手に対してなんら後ろ暗いところはないという風に、自分に自信がないといけません。しかし、亮はエドへの敗北で、決定的に自分の限界を越えた相手が生まれたことを知ってしまった。「自分よりも強い人間」の存在を知ったことで、自分の存在意義をどう受け止めればいいのか分からなくなってしまった※ために、「相手を見る」ということができなくなっていたのではないかと。 GXの「リスペクト」は、確かに日本的な「尊敬」というニュアンスもおそらく入っているのでアルファベットでも書けませんが、和訳も不可能なんです。カタカナ表記しかできないんです。 NASが使う言葉の中には、ぱっと見では意味が掴み切れないダブルミーニングだのトリプルミーニングだのがこっそり連打されてるっぽいので、注意が必要かもしれません…(笑) ※ ちなみに、敗北後の亮のストーリーに関して言えば、「エド=自分を負かした相手より強くなれるように努力する」は、万丈目のストーリーとテーマがダブるので却下です。亮はあくまで、「エド=自分の限界を越えた相手=自分より絶対的に強い相手の存在とどう向き合うか」というテーマを抱えています。そして、だからこそ亮は、実力(≠強さ)ではなく結果がすべての「勝てればいい」に傾くことになります。(「実力(純粋な力)」=強さ≠強さ=「勝てる力(技術・方法込み)」っていうレトリックがまた面倒なんだ…) 亮にあえて「限界」で立ち止まらせた理由は、ひとつは、「強いとか弱いとか勝つとか負けるとかは、人間の価値の全てじゃない」というテーマを限界ギリギリで表現するため、ひとつは、それを比喩として、生死の次元で悩み苦しむことになる十代への助言にするためなんじゃないかと思います。 あと個人的にもうひとつ、思春期の終わりに出会う子ども時代の終わり、終焉の感覚にリンクしているんじゃないかと思います(意図的無意図的はさておいて)。子ども時代の終わりに、「完璧であることを感じる」というのはあるらしいです。(参考:河合隼雄『子どもの宇宙』岩波書店)それが壊されると感じて自殺するケースもあるんじゃないか、と筆者が言ってるくらいなので、実際にそれが壊された亮が自殺行為みたいなのに走ってもおかしくはないかもしれません。 |