「吹雪を犯したと言うのは、本当か?」 「…ああ」 ただでさえ喧嘩のようなこととは縁が無かったけれど、それを差し引いても、こんなにもまっすぐに殴られることは後にも先にもこれっきりだろうと藤原は思った。 COMPLEX 「…ッ」 殴られた際にどこか切ったのか、口の中に錆びた血の味が滲んだ。 無言で睨みつけてくる亮から目を逸らしながら、藤原は吐き捨てる。 「これがオレへの罰ってこと?随分お優しいんだな」 (アイツの受けた傷は、こんなものじゃ―) 「違う」 即座に否定した亮に、藤原は一瞬耳を疑う。 「…なんだって?」 「今のはただ、オレの気が収まらなかっただけだ」 「だからそれは―」 「だがそれは、お前を罰するためなんかじゃない。お前がそう思うなら、それは…」 そこで一度、亮は言葉を切った。 睨みつけていた瞳の眼光が、不意に消える。 代わりに藤原を見つめるのは、傷ついたような、痛ましいものを見るような、そんな眼差し。 うつむいた亮が、ぽつりとこう言った。 「アイツはお前の事を、恨んでも憎んでもいない」 今度こそ、藤原の目が驚愕に見開かれる。 その驚愕こそが、亮には哀しかった。 * * * その日、授業に出てこなかった吹雪に、どうかしたのかとメールを入れても返事も来ず、亮は吹雪の様子が気がかりで彼の部屋に向かった。 ドアをノックしても返事も無く、鍵もかかったままだった。 試しに一度部屋に戻って電話を入れる。コールしても吹雪はなかなか出ず、何度かトライしているうちに、ようやく吹雪につながった。 『吹雪?』 『…亮』 憔悴しきったその声に焦りを覚えながらも、できるだけ冷静に亮は尋ねた。 『何か、あったのか?』 『………うん』 重い空気で、吹雪が頷いた。 『…何があった?』 『……………』 ためらうような沈黙に、亮は言葉を重ねる。 『言いにくいなら、無理に言わなくていい。…ただオレは、お前の傍にいたい。…お前の部屋に、行ってもいいか』 『……ッ』 『…吹雪…?』 『…来ない…で、くれ…』 電話の向こうで、くぐもった声が聞こえた。 嗚咽を押し殺すような、そんな声だった。 『………………ふじっ…わら…に、……犯さ、れ…っ』 その瞬間、ぞっとするような感覚が亮の中を駆け抜けた。 ありとあらゆる負の感情を混ぜ合わせたような、得体のしれないそれに吐き気さえこみ上げてくる。 それを必死で抑えたのは、電話の向こうから聞こえる吹雪の嗚咽が、何故かあまりにも、透明だったからだ。 『…吹雪。これからお前の部屋に行く。いいな』 『でも…っ』 『鍵は開けなくていい。だからそこで待ってろ』 適当な理由で管理人に吹雪の部屋の鍵を借りて、亮は吹雪の元へ向かった。 * * * 薄暗い自室の中、吹雪はソファに独りうずくまっていた。 周りを拒絶するように―自分を守るためと言うより、むしろ周りから自分を排除するために―自分の体を抱きしめる吹雪に、亮は触れることができなかった。 その手首に残る痣は、それが縛められていたことを物語る。 亮は自分の上着を脱いで、吹雪のふるえる肩にそっとかけた。 吹雪の前に、静かに跪(ひざまず)く。 「…吹雪」 その声に、焦点を結んだ瞳から、涙があふれた。 泣きじゃくる吹雪に触れられない歯がゆさを感じながら、何を言ってやることもできずに亮はただ見守る。 どれくらい、そうしていたか分からない。 おそらく泣き疲れたせいだろう、嗚咽の収まってきた吹雪が、ぽつり、ぽつりと語り始めた。 「…藤原…さ…。全部、終わった後に、…泣いたんだ」 吹雪が、何に混乱していたのか、それが少しずつ見えてくる。 「なんでかな、分からないけど、泣いてた。それ見て、思ったんだ。藤原は、一度も、…好きだって、言ってくれなかったけど。もしも言ってくれたら、ボクは―」 * * * 「…オレを裏切ってでも、お前に抱かれたかもしれないと」 それを聞いた藤原が、わなわなと震える。 「嘘だ!!」 「嘘じゃない。吹雪はお前の事を許したがっていた。それが何よりのオレへの裏切りだと自分を責め続けて、壊れる寸前だった」 * * * 吹雪の告白を最後まで聞いた時、亮は迷わず吹雪を抱きしめた。 そして泣いた。 吹雪の中に、吹雪が責められる謂われなどどこにも無くて、今自分が許さなければ、吹雪が壊れると思った。 そして同時に―藤原のことを、自分自身憎みきれないことを悟ったのだ。 * * * 「お前は、吹雪がお前の気持ちを受け入れるかもしれないとは、考えもしなかったんだな」 「だって…だってそうだろう!?お前がいるのに、吹雪が…お前を裏切るなんて…!」 「ああ、吹雪はオレを…いや、大切な誰かを裏切ったりしない、できない。だから苦しんでいたんだ、そのせいで、お前を独りにしてしまったことを」 「なん…」 「お前だって分かってるんだろう。自分が普通なら、許されないことをしたと。だから罰されて当然だと考える。オレ達の気持ちなんか、ひとつも分からないままで」 「分かってるさ!分かってるから、だから…!」 「分かってないんだ!!」 たじろぐ藤原の胸倉をつかんで、亮は言った。 「いいか、お前が吹雪を縛って奪ったのは、抵抗の手段じゃない。それが例え、お前の望んだ感情ではないとしても…お前のことを大切に思っていると、好きだと伝える手段のほうだ!!」 亮の目から涙が散った。 今度こそ、藤原の表情が凍った。 「あ…あ…」 わなわなと震える藤原の瞳からも、涙がこぼれ始める。 「ああああああああああああーっ!!!」 絶叫がこだまする。 いつしか降り始めていた雨が、二人の全身を叩く。 この瞬間、三人の誰もが、絶対的に孤独だった。 |