鮎川先生を呼びに行ったとき、事情が込み入っていることを察してくれたのか、とりあえず戻れと言われたことにほっとしたものの、亮はやりきれない思いを抱えたままだった。
 藤原は勘違いしていたけれど、藤原を殴ったのは吹雪のためではない。吹雪が藤原を許したいと思っている以上、結局は自分のためだ。だから、一人にしたくないとは思いながら、吹雪に会いにも行けなかった。


 SINCERE 後編


 次の日の放課後、亮と藤原は鮎川先生に保健室に呼び出された。
 亮が部屋の扉を開けると、先に来ていた藤原が不安そうにこちらを振り返るのが見えた。
「失礼します」
 そう言って部屋に入ると、鮎川先生がほっとしたように頷いた。
 亮は、藤原の隣、用意されていた椅子に腰かけた。
「さてと…二人とも、どうして呼びだされたのかは、大体分かってるわね?」
「はい」
「…はい」
 気まずそうに藤原がうつむく。
「じゃあ、まずは丸藤くん。どうして藤原くんを殴ったりしたの?」
 その質問に、亮は言いにくそうにしてからそっけなく答える。
「…ムカついたから、です」
 その言葉の不似合いさは見ないふりで、鮎川は先を促す。
「ムカついたのはどうして?」
「………」
 渋い顔で黙り込む亮に、鮎川は困惑を顔には出さずに内心で溜息をついた。
(藤原くんも、同じところで黙るのよね…)
 鮎川の目の前には、それぞれお互いに視線を逸らしながら俯く二人がいる。
 感情的になった理由を、本人もよく分からない、というケースが無いわけではない。けれど今の亮に関して言えば、分からなければ分からないと言えるだけの素直さはあるように見えるし、藤原がその理由を疑問に思っていない以上、その可能性は限りなく低いと見ていいだろう。
 暴力はいけないと言うのは簡単だ。けれど、亮が藤原を殴った理由を、二人がそろって隠していては、鮎川にはどう指導すればいいのか判断がつかない。
「…藤原くんは、殴られたのは自分が悪いからだと思っているのね?」
「…はい…」
「丸藤くんは、藤原くんが悪いと思っているの?」
「…殴ったのは、オレが悪いです」
 質問に正面から答えないということは、それ相応の理由だとも思ってはいるのだろう。
 普通なら自分の非を認める方が難しいはずなのに、この二人はそれはできても仲直りはできないらしい。よっぽどの事情が隠れているのは確かで、鮎川は途方に暮れる。
(困ったわね…)
 藤原が何をして亮を怒らせたのか分からない以上、一方的に亮を叱るわけにもいかない。かといって、どんなに二人の中で意見が食い違っていなくても、理由も分からずに藤原を叱るわけにもいかない。完全にお手上げ状態だ。 
「…あのね、二人とも―」
 三人そろって黙っていても仕方がないと、鮎川が無意味を覚悟でテンプレートなお説教を口にしようとしたそのとき、保健室の扉が開いた。
「…天上院くん?」
「えっ…」
「…っ」
 その名前に、藤原と亮が同時に振り返った。
 そこには、ここまで走ってきたのか、若干息を切らせた吹雪が、戸惑うような表情で立っていた。
 それを見て、二人が完璧に硬直してしまう。
「…藤原と、亮…、喧嘩、したんですか?」
 どうも二人が隠していたことは吹雪に関係があるらしいと察しながら、鮎川は頷く。
「え、ええ」
「…すみません。それ、多分、ボクのせいです」
「何言い出すんだよ!」
 間髪いれずに叫んだのは藤原だった。
 その藤原に、吹雪は答える。
「だって、そうだろ?ボクが…いなかったら、二人が喧嘩する理由なんか、無いのに」
「そん…」
 言い懸けた藤原の隣で、亮が席を立った。
 他の二人が見ているのを承知で、吹雪を抱きしめる。
「…何故、そんな言い方をするんだ」
 言葉は問いかけていても、それは理由を知っている声だった。だからただ、痛みがにじむ。
「…すまない」
 苦しそうな声で、吹雪がそう言った。自分さえいなければと言ったその言葉が、自分を大切に思う亮を傷つけると知っていたからだろう。
 もともと亮には藤原を許すも許さないもない。その権利が無いのだ。藤原が傷つけたのは吹雪で、亮ではないから。
 そして吹雪は、亮を思えば自分から藤原を許すと言えなくて、藤原を思えば藤原を責めきることもできない。
 だから―
「…っ天上院!」
「藤原」
 意を決して呼んだその声に、吹雪がこちらを見やる。
 その意図を察して、亮が吹雪を解放した。
(分かってる、最初からわかってた。勇気を出さなくちゃいけないのは…オレなんだ)
「その…。…すまない!!」
 そう言って頭を下げた。
 それ以上何も言えない。
 長いような短いような時間を耐えていると、吹雪がこう言った。
「…顔、上げてよ」
 言われて、おそるおそる顔をあげる。
 複雑な表情の吹雪が、目の前にいた。
 口の端に貼られたガーゼにそっと触れる
「…これ、亮がやったの?」
「…うん」
「…ああ」
 藤原と亮が同時に答えた。
「…ほんとは、ボクが怒らないといけなかったんだろうね」
「ちが、オレが…あんなことしなかったら…!」
「うん。怖かったし、痛かった。傷ついた。…でも、ボクが一番辛かったのは、キミを許せないことだった。この意味を、分かってくれるかい?」
 その言葉に、藤原は目を瞠(みは)った。
 吹雪は、亮の事がなければ、藤原を一方的に許すこともできたのだろう。それは吹雪が「怒らないといけなかった」と言ったように、ある意味では間違いだ。それは一種の現実逃避だし、どちらの心にも歪みを残しただろう。吹雪がその間違いを犯さなかったのは、吹雪を大切に思う亮のことを、吹雪自身が思えばこそだった。
 けれどそのせいで、吹雪は板挟みになってしまった。許したいのに許せないその状況が、吹雪には一番苦しかった。
 そしてその状況を覆すためには―藤原が吹雪に許しを請う以外に、藤原自身が自らの現実を受け入れて未来に賭ける以外に、方法は無かったのだ。
 それは吹雪に、罪の清算を背負わせることでもあるけれど。
 藤原の瞳から、涙があふれた。
「…本当に…すまない…!」
「…うん」
 複雑な表情のまま、吹雪は頷く。
 過去が変わったわけではない。それでも、かすかにでも、やっと通じた心のかけらは、傷の痛みをやわらげていく。
 ほんの少しだけ、吹雪は微笑んだ。
「…もう、いいよ。亮も、いいだろう?」
「…ああ」
 それはまだ、本音の100%ではないのかもしれない。けれど嘘ではないから、一番綺麗なそれを、本当にしていたかった。

 * * *

「…………えぇと………仲直りは、済んだみたいだけど」
「え」
「あ」
「………」
 蚊帳の外に置かれていた鮎川の声に、三人はそろって気まずげな顔をする。
「………悪いけど、まずは、天上院くんと、丸藤くん。話を聞いてもいいかしら?藤原くんは、また後で聞かせてもらうから」

 苦笑した鮎川先生の、一片の間違いもない言葉に、三人は大人しく頷いたのだった。


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