藤原優介。
 誰も知らないその名前は、名簿に確かに記載されていた。
 彼のものと覚(おぼ)しき部屋も、確かな痕跡を残して存在していた。
 けれど教師・生徒の誰一人として彼のことを知らず、それ故その痕跡はこっそりと片付けられ、いつものように、留学中の生徒が一人増えることになっただけだった。
 以前から存在する、留学の名の下に隠されているブルー特待生の行方不明者。それが藤原優介という存在の不可解ささえも、覆い隠してしまっていた。

  limit→PERFECT 17
 二人だけの平穏

 昼休み、いつものように亮と昼食を食べながら、吹雪が言った。
「『藤原優介』」
 それは朝方、クロノス教諭から尋ねられた名前だった。「藤原優介という生徒を知らないノーネ?」と。
「どこにでもいそうな名前だよね?」
「オレは人のことは言えないがな」
 吹雪の持つ「天上院吹雪」ほどに派手な名前は確かになかなか無いだろうが、亮の方はと言えば、「亮」がかなりメジャーな名前な上、「丸藤」という苗字も、「藤原」ほどではないにしろ少ないとは言えないだろう。
「…でも不思議だよね、この写真」
 それは、件(くだん)の生徒が使っていたと思われる部屋で見つかった写真だ。
 二人に渡された写真は二枚。吹雪が一人で写っている写真と、吹雪と亮が二人で写っている写真。
「まったく撮った覚えがない上、これだからな」
 そのどちらにも、不自然な空白があった。それは、もう一人いたと言わんばかりの空間。
「しかも…なんとこれ!」
 ばん、と出してきたのは、その部屋から見つかった写真とまったく同じ二枚の写真。
「持ってるんだよ、ボク…」
「ああ、オレもあるぞ」
 それはもちろん、見つかった写真の片方と同じ、吹雪と亮が写っている写真だ。
「…完全にホラーだな」
 起こっていることの不気味さの割には、のんきな口調で亮がコメントする。
「消えた生徒、か」
 それを吹雪も、不思議とは思わない。
 なんというか―危機感は感じなくていい、という妙な確信だけがあるのだ。
「…一昨日(おととい)言ってた友達だったりして」
「………」
 それは、あまりにも自然な発想だった。
「…だとしたら、思い出せないの滅茶苦茶落ち込むんだけど…」
 今でこそ明るく振舞っている吹雪だが、忘れていた心の傷が蘇ったあの夜、普段からは想像もつかないほどに吹雪は泣いた。その傷を忘れさせていたのは―知らぬ間に傷を埋めていたのは、多分、二人の共通の友人。けれどその友人を、二人は思い出すことが出来なかった。
「…今は、考えても仕方ないんじゃないか」
「うーん…」
 それが、あまり考えすぎて暗くなるなという意味なのは分かった。考えてもどうにもならないことというのはこの世に確かに存在していて、そういうところで考えすぎないでいられるのが亮の特技だった。
「…でも気になるよ…」
「…まぁ、そうだな」
 だよね、と相槌を打つと、吹雪は二人で写っている写真をおもむろに取り上げて言った。
「この写真、撮った覚えこそないんだけど。でもボク、これ見て覚悟決めたんだよね、キミのこと好きだって」
 一風変わった言い回しだったが、それが吹雪の素直な気持ちだった。
「これを見て?」
「この亮さ、ボクのほう向いてるように見えるでしょ?」
「あぁ…確かに」
「これ、ボクを見てるように見えるけど…ただこっちを向いてるだけで、ボクを見てるってわけじゃないのかもしれない、もう一人を見てるのかもしれない、そんな風にも思って、悩んだはずなんだよ。なのに…」
 この写真にはもう、悩む要素は存在していない。
 明らかに、消えた誰かがいるはずなのだ。
「どーしたらいいんだろう…」
 ばったりとテーブルの上に伸びた吹雪の頭を、亮の手が優しく撫でた。
 吹雪は顔だけこちらに向けて、視線を投げかけてくる。
「こういうのは駄目か?」
「ううん、あんまりされたことないから、新鮮…かな。明日香にはよくしたけど」
「そうか」
 その答えに、亮は優しく微笑む。
「生まれた時から可愛くて可愛くて仕方なくて、両親がしょっちゅう留守だったせいもあって、もうべたべたに構っちゃったからねぇ。さすがに最近やろうとしたら怒られるけど。明日香もお年頃だからね」
 そう言って笑う吹雪に、涙の痕は見えなかった。少なくとも痛まない程度に、傷は癒されているのだろう。
「翔くんに、こうやって構ったりした?」
「していたのは、翔がかなり小さい頃だな。なんというか…あまり甘やかすのも、よくないかと」
「ボクは甘やかしてもいいのかい?」
「こういうのは優しくすると言うんじゃないのか?」
「そうかな、昨日からだいぶ甘やかされてる気がするけどね」
 運よく休日だった昨日、二人は一日同じ部屋で過ごした。ただゆっくりと、波立った心を落ち着かせるために。吹雪は亮のキスを拒まなかった。そして亮は、それ以上をしなかった。それが二人が暗黙のうちに編み出した、今のスタンスだった。
「あれだけ落ち込んで、そう簡単に本調子にはならんだろう。今は大人しく甘やかされていてくれ」
「結局甘やかされてるんじゃないか」
 くすくすと、吹雪は笑った。
 誰かに見られるかもしれない、聞かれるかもしれない、今はそういうことはあまり気にならなかった。それを気にしていたのが、他人以前に自分で自分が認められなかったせいだと、そう気づいてしまったから。
 ある程度は注意もしているけれど、神経質に警戒する必要性も感じなかった。
 
 080730

 +++ limit→PERFECT 18 そしてまた一人消え に続く +++

 
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