一、なのらさね―君の名を呼ぶ 初めて出会ったのは偶然だった。 いたって普通の、身分もない民だったユベルにとって、それはあるなどとは思いもよらなかった出会いだった。 日陰で本を読んでいたところに、前も見ずに走る王子が―ぶつかってきたのだ、勢いよく。 「いったたた…って、すまない!大丈夫?」 「え、ええ」 その身なりから正体は一目瞭然で、口もきけずにいるユベルに、王子は慌てた様子のままで続けた。 「良かった、ねぇ、しばらく匿ってくれない?」 「かくまう?」 「見つかったらまたお説教だよ!王子たるもの自覚を持って―なんてさ、そんなの自覚しなくたって、事実は変わらないんだからいいじゃないか、どっちだって」 「は、はぁ」 いや、自覚というのはそういうものでは…と内心思ったものの、ユベルが仮にも王子に向かって言えるはずもない。そんなユベルの様子に気づかないことこそが、自覚がないと言われる所以(ゆえん)なのだろうな…と、上目づかいに王子を見つめた。 と、目があった瞬間、王子は笑って尋ねた。 「キミ、本が好きなの?」 どき、と、鼓動が跳ねた。 「え、えぇ…」 「ボクも読めって言われるから読むけどさ、読んでもよく分からないんだよ、だからあんまり得意じゃないな。どうしてあんなに難しい言葉で書いてあるんだろうね?キミ、何か分かる?」 よくそんなにぽんぽんとしゃべれるものだと半ば呆れ半ば感心しながら、ユベルはとつとつと答えた。 「…難しいことだから…じゃ、ないですか。本当のことは難しくて、それを書き表すのも難しくて、言葉も難しくなる…とか…」 正直言って考えたこともなかったのだ。本ぐらい読めたほうがいいと言われて文字を習い始めて、そんなことは関係なくすぐに没頭した。面白かったからと言えばそれまでだ。けれどいざ「難しい」と言われれば、それが何故面白いのかよく分からない。 「あぁ、そっか!」 けれど王子は、すとん、とそう言って見せた。 「…今ので分かったんですか?」 思わずそう聞き返してしまっていた。聞き返した理由は自信が無いからなのだが、さすがに無礼なんじゃないか、と頭をかすめたのは杞憂で、王子はけろっと答えた。 「え?うん。難しいから難しいってことでしょ?言われてみれば簡単だったなぁ。でもそれ覚えないといけないのか…やだなぁ…」 すさまじい要約だったけれど、ユベルの考えたことが伝わったのは確からしかった。本を読むのが苦手だなんて本当だろうか?そんな風にも思ったけれど、多分本当なのだろう。自覚がないのは、自分が王子だということだけではないらしい。 気付けはユベルは、気遅れも忘れてほほ笑んでいた。 「…王子には、もっと優しい言葉のほうがいいのかもしれませんね」 「…え?」 「詩や物語は読まれますか?」 そう言ったユベルに、王子はにっこりと笑った。 「うん!そういうのは好きだな、ほら、竜退治をする騎士の話とか!」 「はい、私も好きです。基本は同じですよ。王子なら、きっとどんな本でも読めるようになります」 「そうかな?うーん…」 首をひねって、王子は一言こう言った。 「ねぇ、一緒に読もうよ」 「……え?」 「キミとなら楽しそうだからさ!」 いや、さすがにそれは無理だろう。そう思ったけれどやっぱり言えない。ただそれには、最初からあった“相手が王子だから”とは違う理由が混ざっていた―そうできたら、自分もきっと嬉しいけれど。 戸惑いに答えられないでいるユベルに、王子は変わらず笑いかける。 「ねぇ、キミの名前は?」 「…ユベル、です」 「ユベル、ユベル…うん、覚えた!ユベルか、いい名前だね」 「王子!またこんなところで…!」 「げっ、見つかっちゃった…じゃあ、またね!」 「は、はい…」 じゃあね、と、王子はもと来たほうへと駆けていった。 笑顔だけ残して突風のように去った王子を見送って、そんなことを言ってもこれが最初で最後だろうと言い聞かせる程度に、ユベルは常識というものを知っていた。 ただ相手が常識を簡単にぶち壊せる人間なのだということには、まだ思い至っていなかった。 |